

かつて、こう言った人がいた。
「好きなことを、諦めたくない。僕たちは”まだ”、自分を信じきれていないんだ」
きっと多くの人が、好きなことをに没頭して、時間を忘れていつまでも楽しみたいことがあるはず。
けど、リアルがあるから、生活があるから、学校があるから、仕事があるから……。そういった言葉に
押し潰されて、自分が本当にやりたいことに時間を費やすことが出来ていないのではないでしょうか。
もしかしたら、いい歳していつまでもそんなことやってるんじゃない、と言われたこともあるかもしれない。
出来ることなら、時間も何もかも忘れて自分の好きなこと、やりたいことにいつまでも没頭していたいと思う気持ちは貴方にも、少なからずあるのではないでしょうか。
私は思う。心から愛してやまないモノがあることは、素晴らしいこと。
それは決して、蔑まれるいわれも、馬鹿にされるいわれも、諦める理由もないはずなのです。
年齢が何の関係がありましょう、愛すべき対象が貴方以外の誰にも理解されないことが何の問題がありま
しょう、私たちが夢見た最高の時間を人生の一部になんてしたら、それは好きなことから目を背けたことと
同じになってしまいます。
物語が好きです。
色々な物語を読むのが、好きです。
いつの頃からか、私の周りには物語が溢れていることに気がつきました。
学校の廊下ですれ違った彼の17年間の人生、隣のクラスで窓際に座って外を眺める彼女の憂う表情、
職員室に行ったときに視界の端に映った教頭先生の笑顔。
県外の会社に行くために朝早く電車に乗り込む疲れが抜けないお父さん達、公園で子供と散歩する楽しそうなお母さんたち、生活路でよく見るランニングをしている細身のお兄さん。
それは私たちと同じように生き、人生を歩いてきた人たちの姿であり、それぞれに違う人生がありました。
また、人が居ない風景の絵が描かれた表紙が気になって手に取った一冊の本。探偵が恭しく帽子を被り、
紫煙を燻らせる推理小説を読んだり、キャラクターたちが嬉々として笑い合い、時にはシリアスに掛け合う
アニメに翻弄されたり、コントローラを握りながら必死でボタンを押すこともあれば、流れてくる文章を
目で追いながらゲームの中の主人公たちが困難と立ち向かうお話を音楽と共に嗜んだり。
それらは全て、誰かの物語なのです。
現実であれ、空想であれ、そんな区別を通り越して私に囁いた物語たちがそこには在りました。
ある時、私は自然とペンを走らせていました。
内側から湧き上がる衝動が声無き言葉となって、私の目の前に書き連ねられていきます。
頭の中では登場人物たちが喜怒哀楽、様々な表情を見せて縦横無尽に駆け回りながら私に呼びかけているの
です。まるで、目の前にいるかのように声が聞こえて、美しい仕草を見せて、それぞれの物語が生まれて
いったのです。
そうして私は、書くことの楽しさを知りました。
はじまりは見ることの楽しさを教えてくれて、出会い、読むことの楽しさを教えてくれて、今では私の頭の中、心の中ではたくさんの人物が息づいています。
それが私の、創作という”物語の原点”になりました。
自身の内側から生まれくる物語を、我が子のように愛しています。
それはこれまで私が見てきた物語に影響を受けて、生まれてくるということは否定出来ません。
しかし、似た顔の子が居て我が子を見間違うことがありましょうか。
我が子を無理やり区別されて軽蔑の対象にされることで心が痛まない親がいるでしょうか。
私が愛でた物語に愛想を尽かすことなどありえないのです。
比べられることも、馬鹿にされることも、もはや関係ありません。
私が生んだ子を愛す、それが自分を信じきるということです。
だから私は、彼にこう答えました。
「私は、生まれた子供たちを愛しています」
私の夢は、ここにある本棚にすべて私の本を置くことです。
貴方のようにここを訪れてくれた人へ、私が書いた物語を見てもらう為に……ね。
そうして、楽しいこと、好きなことに正面から向き合って私は生きていく。
子供たちに感謝して……。
そうよ、私が創作する時に一番大切にしている言葉は――――。
”生まれてきてくれて、ありがとう。”
